身近な人に本を薦めない方が良い理由(参考書籍:乱読のセレンディピティ)

子供の頃に読書にハマるのは難しい

今となれば本が大好きなのですが、子供のころは全く本を読みませんでした。記憶にあるところで言えば、流行ったドラマの原作、図書館にいつもあった『ズッコケ三人組』、何かの歯車があって本屋で面白そうだと思った推理小説くらいなものです。

その理由を振り返ってみると、「それで特に困らなかったから」と、「他にも楽しいことがあったから」。

そしてもう一つあるとしたら、「本を読めと言われて育ったから」がありそうな気がします。他責な発想ですが、僕だけではなく他の人にもあてはまるのではないでしょうか。

前提として、本を読む行為というのは他に何かをする行為と引き換えにその時間を捻出するので、それだけの意義を見出さなくてはなりません。子供の頃の意義とは、その時間が面白いかどうかがものさしになります。それに対して、読書という行為は面白くなるのに非常に時間がかかる。読書だけではなく、サッカーも水泳も、書道もピアノも面白くなるのには一定時間がかかるのですが、それらは段々とハマるための仕組みがしっかりできています。

一番大きい役割を果たしているのは、本番があるということです。スポーツで言えば試合、ピアノで言えば発表会、書道も大会があります。本番は、①定期的に実力を披露するために高頻度&継続した取り組みが必要、②競争心理がはたらくのでモチベーションを維持しやすい、という2点の特徴から、最も挫折しやすい序盤戦を助けてます。

一方で読書に関しては、本番はありません。徹底的に孤独な作業です。そんな環境の中読書にハマることができるとしたら、「好奇心」と「問題意識」が必要となります。僕は、おそらくどちらもありませんでした。もしかすると「好奇心」はあったかもしれませんが、それは最初のステップである「読書も面白いかもしれない・・」に気づくまでの山を登るほどのエンジンは積んでいなかったということになります。

親や人から本を読むようにとアドバイスを受けたのも逆効果でした。具体的なタイトルを指定されたかどうかは覚えてませんが、大人たちの言う読書とはこうも面白くないものかと思い、更に読書道から離れました。そして、ハマりやすい特性を持つスポーツに身を捧げ、大学生になるまではほぼ本を読みませんでした。

 

自分事化した問題意識が読書習慣を育てる

僕が読書にハマったのは、27歳の頃、転職をして、仕事の仕方が180度変わったことがきっかけです。ベンチャー企業が故に「上司=メンター」となり、おいそれとなんでもかんでも質問できる環境ではありません。頼る選択肢が他にはなく本を読みました。結果的にこれがとても良かったのだと思いますが、自分事化した問題に対して、読書から学びを得て、行動に変えていくというサイクルがここで身につきました。

外山慈比古先生の『乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)』を読むと、読書の姿勢として「精読」と「速読」の違いについて考えさせられます。前者は「舐めるように読む」スタイルで、後者は「風のように読む」スタイルです(10分読書みたいな極端な例を示しているわけではありません)。

27歳の頃の僕の読書は精読でした。教科書を読むように、大事な箇所にはペンを入れ、書き写しました。しかし、自分が今向き合っている問題の解決のために手にとっている本になりますので、苦ではありません。むしろその作業をやらずに遊び呆けている方がストレスでしたので、案外簡単に最初のステップである読書が面白いというステップにはたどり着いたのだと思います。

 

人に薦められた本は雑に読めない

この頃は人に薦めらた本を読んでました。今振り返るとビジネス書の中でも、大変人気なベストセラー的なものが多かったですが、その頃は「これを読めばなんとかなるかも・・」と藁にもすがる想いでした。上司から感想も求められましたので、1ページも読み飛ばしません。当然、1冊を読むのに大変な時間をかけることになります。最初はそれでいいのかもしれません。特に新しいジャンルの本を読む上で速読は極めて乱暴で逆に遠回りするケースもあります。

しかし、読むすすめていくうちに、これは一般論だな・・とか、これは自慢エピソードだな・・とか「良い意味で」冷めた読者視点を得ていきます。この状態で、著者を神格化したまま懇切丁寧に読むのは非常に効率が悪い。読書家の人はこうしたタイミングで速読を身に着けていくのだと思いますが、人に薦められた本だとそうした雑な読み方をするのに躊躇する。更に、あの人はどこが学びになったのだろうと、不必要な憶測をしたりする。読書をしているときに、著者の顔や、ましてや推薦者の顔が出てくるほど気が散ることはありません。結果的に得られる学びが散漫になって、芯を食った学びが得にくくなるのではと考えます。

人は近道をしようとして、他の人にオススメの本を聞きます。しかし、その薦められた本をちゃんと読む人がどのくらいいるでしょうか?僕は何冊も薦めてきてますが、あまり良い反応を得たことはなく、そもそも読了しているかも怪しいなと思うことも多々あります。それは、多分、自分の責任で読んでないからです。課題図書になっている。教科書みたいになっている。

人からススメられるのであれば逆に遠い人です。本でしか出会えないような著者だったり、SNSでフォローしている人だったり、パーソナリティをあまり知らない人のほうがいいと思います。

 

乱読のススメ

そうなると、本は自発的に選書したほうが良いということになりますが、自発的に行う選書の仕方で読書人生が決まるかもしれません。先程紹介した本は「乱読」をススメている本です。

乱読とは

やみくもに手当たり次第、これはと思わないようなものを買ってくる。そうして、軽い好奇心につられて読む。乱読である。本の少ない昔は考えにくいことだが、本があふれる今の時代、もっともおもしろい読書法は乱読である。

 

乱読を薦める理由は、ざっくり下記2点となります。

1)速読することで総論の理解度が上がる

乱読の良いところは、早く読むことである。専門、あるいは知識を得るための読書は知らず知らうのうちに遅読になりやすい。言葉は、さきにのべたように、残像を伴っている。時間的現象であるから、丁寧な読書では、残像に助けられる読みが困難である。

確かに、速読したほうが大筋をつかみやすい。結果、思考につながりやすい。精読して、読書がとぎれとぎれになり、各論でしか理解が進まないという状態はデメリットが大きい。速読で枝より木を捉え、この本で得た学びは何か、を速いサイクルで回したほうが得られるものが多いと思います。

 

2)偶然の気付きがある

乱読は興味向くまま読むので、結果的に多読することになります。多読は複数の本を並行して読むことになるので、本と本の偶然の出会いによって、普通出会えないような偶然に出会う可能性を高めます。この本と並行して読んでいる『成功は“ランダム"にやってくる! チャンスの瞬間「クリック・モーメント」のつかみ方』にも近い概念が紹介されています。成功は計画的に生み出せるものであはなく、計画を実行している中で生じる偶然の気付きを受け止めてちゃんと試してみる結果生じるものだ、と。

読書も一緒なんだと思います。たくさんの情報に触れることで、思わぬ気付きがでてくる。その気付きこそが読書の価値なのかもしれません。外山先生は、その機会を増やすために、ジャンルにとらわれない選書を推奨しています。

乱読はジャンルにとらわれない。なんでもおもしろそうなものに飛びつく。先週はモンテーニュを読んでいたがちょっと途中で脱線、今週は寺田寅彦を読んでいる。来週は『枕草紙』を開いてみようと考えて心躍らせるといったのが乱読である。ちょっとやそっとのことでは乱読家にはなれないのである。とにかく小さな分野の中にこもらないことだ。

小さな分野にこもらず興味の向くまま手を伸ばしてみる。ジャンルを限定しすぎず、小さな好奇心を大切にして、本に触れ合っていこうと思います。(完)

 

 ◆本ブログで紹介した書籍

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 
成功は“ランダム

成功は“ランダム"にやってくる! チャンスの瞬間「クリック・モーメント」のつかみ方

  • 作者: フランス・ヨハンソン,池田紘子
  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
  • 発売日: 2013/10/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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